硫黄島での戦死者の遺骨発見を日本が誓約

日本は、硫黄島の戦いで行方不明となった約12,000人の兵士の遺骨を発見することを誓約しました。

硫黄島は、第二次世界大戦の終盤に米国が激しい日本軍の抵抗を破った場所です。

1945年2月19日、米軍が太平洋の硫黄島に上陸し、激しい戦闘が始まりました。この戦いで約22,000人の日本兵が命を落としました。66年後の現在、日本の菅直人首相は、未だ行方不明とされる約12,000人の兵士の遺骨を発掘し、帰国させることを誓約しました。

「戦争で亡くなった多くの人々が、まだ帰宅を待っています」と菅首相は2011年2月16日に語りました。この日は、前年に発見された822人の兵士の遺骨が回収作業者から日本政府に引き渡される式典が行われました。「戦没者の遺骨を速やかに回収することは、今後も政府の責任であると考えています。」

これまで、硫黄島での遺骨回収作業は、島に広がるトンネルや地下壕のネットワークや、身元識別の手段を持たない兵士が多いことなどが原因で遅々として進んでいませんでした。しかし、ワシントンD.C.の米国国立公文書館で日本の関係者が行った新しい調査により、島内の「敵の墓地」を特定する文書が発見され、このプロジェクトは大きな進展を見せました。この情報に基づき、2010年10月には民間ボランティアが最大2,200人の日本兵の遺骨が含まれる可能性がある二つの集団墓地を発見しました。

硫黄島の戦いは第二次世界大戦の重要な転換点であり、約8,000人の米兵と、島に駐留していたほぼ全ての日本兵の命を奪いました。一部の日本兵は自決を選びました。アメリカでは、この血みどろの対決を、1945年2月23日にジョー・ローゼンタールが撮影したプラスツアー賞受賞の写真、つまり、米兵が硫黄島の主要防衛拠点であった摺鉢山で星条旗を掲げる姿と関連付ける人が多いです。戦闘は3月16日まで続き、その後、米海軍の軍政が設立されました。

1968年に米国から日本に返還されたこの島は、東京の南780マイルに位置し、現在は海上自衛隊が運営する海軍航空基地があり、400人の兵士が駐留しています。2007年には、クリント・イーストウッドの映画『硫黄島からの手紙』と『父親たちの星条旗』がこの誤称を強調し、戦前に硫黄島として知られていた元々の名前「硫黄島」に正式に戻されました。この変更は、戦争の直前に徴兵または避難した元島民とその子孫による運動の結果でした。

最近回収された遺骨は、さらに多くの戦没者を探し続ける中、東京の千鳥ヶ淵戦没者墓苑に埋葬されると菅首相は述べました。彼は2010年12月に硫黄島を訪問した二人目の日本の指導者となり、「多くの年を待たせてしまい、戦没者の皆さんに深くお詫び申し上げます」と語りました。

引用元:Japan Pledges to Find Remains of Iwo Jima Dead – https://www.history.com/news/japan-pledges-to-find-remains-of-iwo-jima-dead