歴史上最悪の核災害6選

2024年7月22日

致命的な空気、汚染された土地、癌の流行、そして隠蔽工作。これらの核事故は壊滅的なものでした。

原子力発電は1950年代に本格化し、現在では約440基の原子炉が世界中に点在し、世界の電力の約10%を供給しています。化石燃料とは異なり、原子力発電は比較的安定して環境に優しいエネルギー源を提供できます。しかし、一度事態が悪化すると、その結果は壊滅的なものとなります。

以下に、歴史上最も壊滅的な核事故5件について、その原因、封じ込めの方法(あるいは失敗)、そしてその後の経緯を紹介します。

1. キシュティム(1957年9月29日)

第二次世界大戦後、ソ連は核兵器を強化するために数十の秘密施設を建設しました。その多くは急造かつ粗雑なものでした。このうちの一つ、ロシアのオジョルスクにあるマヤーク核燃料処理工場では、廃棄物貯蔵タンクの冷却システムが故障し、乾燥した放射性物質が過熱して爆発しました。オジョルスクとその周辺地域に放射性物質が広がり、最終的に約300平方マイルにわたる範囲が汚染されました。影響を受けた地域の1万人の住民が避難するまでに1週間が経過しましたが、施設が秘密にされていたため、彼らには理由が説明されませんでした。その間に、露出した体の部分の皮膚が剥がれ落ちるといった謎の病気が報告されました。

このマヤーク事故は、当時オジョルスクが公式な地図に記載されていなかったため、近隣のキシュティムの町と関連付けられるようになりました。

2. ウィンズケール(1957年10月10日)

イギリスの初の核反応炉、ウィンズケールは、1940年代後半に北西イングランドに建設され、同国の核兵器計画のためにプルトニウムなどの材料を生産するためのものでした。1957年10月10日、巨大施設で標準的なメンテナンスを行っていた作業員が温度上昇に気づきました。詳しく調べると、反応炉のウランを含む黒鉛のコアが火災を起こしていることが判明しました。反応炉の崩壊が迫っている中、プラントオペレーターは冷却ファン、二酸化炭素、水を使って炎と戦い、自らの命を危険にさらしました。火災は10月12日にようやく鎮火しましたが、その時までに放射性雲がイギリスとヨーロッパ中に広がっていました。

避難は行われなかったものの、当局は約1ヶ月間、影響を受けた地域からの牛乳の販売を禁止しました。科学者たちは、長期的にはウィンズケール火災による放射性降下物が約240件の癌を引き起こしたと推定しています。

3. スリーマイル島(1979年3月28日)

アメリカ史上最も悪名高い核事故は、ペンシルバニア州ハリスバーグ近郊のスリーマイル島プラントで発生しました。この新しい施設は、エネルギー危機の時代に最先端の設計、効率性、経済性が称賛されていました。事故は、反応炉の圧力弁が閉じず、冷却水が放射線を含んだまま隣接する建物に流れ込んだことで始まりました。制御室のオペレーターは危機を封じ込めようと必死になりながらも重大なミスを犯し、朝方には炉心が4,000度以上に加熱され、メルトダウン寸前に達しました。放射性蒸気がプラントから噴出し始め、事件の情報が外部に漏れ、数日以内に4つの郡で放射線レベルが上昇しました。ペンシルバニア州知事のリチャード・ソーンバーグは、妊婦と幼児の避難を命じました。

3月31日、プラント作業員は問題に対処し、メルトダウンの脅威を終わらせることができました。公式には死者や負傷者は報告されていませんが、スリーマイル島で放出された放射線が地域の癌や乳児死亡率の増加に繋がったかどうかについては、現在も議論が続いています。この事件は、アメリカ国民の原子力への信頼を大きく損ねました。

引用元:History’s 6 Worst Nuclear Disasters – https://www.history.com/news/historys-worst-nuclear-disasters